かしのたかひと略歴PROFILE
生まれ | 1963年 |
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星座 | おひつじ座 |
家族 | 妻、娘 |
趣味 | 野球(中学から現在まで野球歴41年、2007年には神宮外苑リーグで打率6割を記録し首位打者、2008年の防御率は1.40。 2019年、全国シニア野球大会で兵庫県大会優勝し、全国ベスト16進出。早朝野球リーグでノーヒットノーラン達成。) |
好きな言葉 | 人事を尽くして天命を待つ |
好きな食べ物 | お好み焼き、たこ焼き、プリン |
学歴 | 1976年 板宿小学校卒 |
1979年 飛松中学校卒 | |
1982年 長田高校卒 34回生 | |
1986年 神戸大学経済学部卒 | |
職歴 | 1986年 ㈱リクルート神戸支社 人材開発部 |
1990年 ㈱リクルート本社 キャンパスマガジン編集長 | |
1993年 ㈱福岡ドーム コンサルティング&プロデューサー | |
1997年 ㈱メディアファクトリー 映画プロデューサー | |
1998年 ㈱中央FM 取締役 | |
2000年 ㈱アイ・エム・ジェイ 代表取締役社長 | |
2005年 ㈱カルチュア・コンビニエンス・クラブ 社外取締役 | |
2005年 TCエンタテインメント㈱ 社外取締役 | |
2005年 ㈱プロテラス (現テラスホールディングス) 社外取締役 |
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2006年 ㈱オウケイウェイヴ 社外取締役 | |
2007年 ㈱IMJエンタテインメント 代表取締役社長 | |
2009年 ㈱アイ・エム・ジェイ 代表取締役会長 | |
2009年 ㈱ネットオン 社外取締役 | |
2009年 ㈱IMJエンタテインメント 取締役会長 | |
2010年 兵庫エフエム放送㈱ 社外取締役 | |
2010年 神戸リメイクプロジェクト 代表 | |
2010年 神戸ヒトマガジン「裕ちゃんを探せ!」 編集長 | |
2010年 FM MOOV パーソナリティ | |
2011年 広島県 広報総括監 | |
2011年 ふんばろう東日本支援プロジェクト 神戸支部代表 | |
2012年 広島県 広報統括責任者(CMO) | |
2012年 京都府 参与 | |
2012年 株式会社CAP 代表取締役社長(現任) | |
2013年 京都府 マーケティングプロデューサー | |
2014年 神戸志民党 党首(現在・顧問) | |
2015年 兵庫県議会議員 | |
2015年 地域政党サミット 代表 | |
2017年 株式会社カクタス 社外取締役 | |
2018年 かもめ地域創生研究所 理事(現任) | |
2019年 地域政党サミット 相談役(現任) | |
2020年 県立広島大学 客員教授(現任) | |
2020年 株式会社BeA 社外取締役(現任) | |
2020年 事業構想大学院大学 客員教授(現任) | |
著書 | 「福岡ドーム集客力の作り方」 |
「情熱革命」 | |
「無所属新人」 | |
「地域再生7つの視点」 | |
「おしい!広島県の作り方~広島県庁の戦略的広報とは何か?~」 | |
「人口減少時代の都市ビジョン」 | |
「仕事を楽しむ整える力~人生を自由に面白くする37の方程式~」 | |
フィルモグラフィー | 「MONDAY」 |
「ジュブナイル」 | |
「バトルロワイヤル」 | |
「ジョゼと虎と魚たち」 | |
「黄泉がえり」 | |
「NANA」「NANA2」 | |
「砂時計」 | |
「ゼロの焦点」 | |
「ただ君を愛してる」 | |
「ゴールデンスランバー」 | |
「眉山」 | |
「雷桜」 |
出生~神戸大学時代
板宿で家具職人の息子として生まれ、野球に明け暮れる。
私の親父は中卒で広島から、おふくろは高卒で鳥取から、ともに神戸に出てきて、好き合って一緒になりました。両親にとって当時の神戸はあこがれの街だったそうです。だからこそ出会えた。もしもそうでなければ、私は生まれていなかったはずです。神戸に輝き続けてほしいと願うのは、だからきっと、私のDNAに刷り込まれた本能でしょう。
板宿小学校では柔道をやっていましたが、野球は好きでした。恥ずかしい話ですが、本をまったく読まない子供で、夏休みの宿題の読書感想文は、毎年毎年『ベーブ・ルース』。それしか読んでないんです。学年があがるにつれて、感想文の内容はちょっとずつ深まっていたはずなのですが…。
飛松中学に入ってからは野球部に入りました(柔道→野球が「ドカベン」の山田太郎みたいだと勝手に思っていました)。中学での一番の思い出は、なんといっても3年生のときの大会です。まわりはうまい選手ばかり。私の背番号は10でしたが、キャプテンに指名されて市の大会で優勝!県大会で選手宣誓をしたことがうれしい思い出として残っています。
長田高校に入ってもやっぱり野球一筋。勉強は、数学と国語が好きでした。生徒会長の応援演説で全校生徒を爆笑させ、先生にこっぴどく叱られたのを覚えています。いま考えれば不謹慎な高校生でした。野球部でのポジションはピッチャー、主将をやらせてもらいました。引退試合が終わった時は3年間野球をやりきった充実感でいっぱいでした
大学でも当然のように野球部に入りました。ところが、入部直後に肩を壊して投げられなくなってしまったんです。仕方なく退部届を出して、しばらくは他のサークルに入ったりしていました。バイトもいろいろやりました。甲子園で「かちわり」売ったり、宝塚ファミリーランドで象のぬいぐるみを着たり…。でもやっぱり野球をやりたくて、復部を願い出たんです。復帰後、下級生に交じってグラウンド整備をやりました。そのときは野球をやっているというより、部の一員として認められたい一心でした。1年近くたった頃、レギュラーだった後輩が、「先輩、明日からは僕等だけでやりますから大丈夫です」と言ってくれたのが忘れられないです。「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」というのが私のポリシーですが、その一言はほんとに嬉しかったです。
ですから大学の野球部に在籍した2年半のうち、まともにプレイに専念出来たのは一年間だけなのですが、いまとなっては貴重な経験をしたと思っています。
リクルート時代
年1000人の新卒面接、そして雑誌編集長へ【リクルート時代】
大学卒業後は商社マンになろうと思い、複数の会社から内定もいただきました。ところが、あまり興味を持たずに受けた面接で、その後の上司になる人に出会い、「この人の下で働きたい」という想いだけで、リクルートにお世話になることを決めました。
新入社員として、神戸支社の人材開発部に配属され、採用担当としてさまざまな人と会うのが仕事でした。年間1000人は面接しました。振り返ってみれば、人に対する目利きが非常に養われた時代です。同時に、人の能力を引き出すのはキャスティング次第ということも学びました。入社後の配属や異動を通じて、活躍する人、大器晩成型の人などいろんなタイプをたくさん目にした体験は、今日に至るまで私の礎になっています。
その後、会社全体のイメージアップに貢献できる仕事を希望して東京へ異動。全国の大学を結ぶイベントを手がけ、クリエイティブの面白さに目覚め、編集部への転属を直訴して「キャンパスマガジン」の編集長を務めることになりました。「紙媒体における双方向性の限界に挑む」というのが同誌のコンセプトでした。都内にイベント空間を持ち、すべての記事がイベント連動型という他に類を見ない斬新な雑誌でした。ビジネス企画、アート、写真、演劇、音楽、映像などあらゆるジャンルで新しい才能を発掘し、さまざまなイベントを仕掛け、紙と空間をミックスしたメディアプロデュースをする。その当時に出会った人々とのつながりは、私にとっていまでもとても大切な財産です。
福岡ドームプロジェクト時代
マイケル・ジャクソンのコンサート、そして阪神・淡路大震災【福岡ドームプロジェクト時代】
次なる転機も突然やってきました。ダイエーによるリクルート買収のときです。当時のダイエーには、ソフトビジネスを手がけられるスタッフがおらず、急遽私に白羽の矢が立ったのです。当時ダイエーのオーナーだった中内功さんは、長田高校の大先輩でしたし、私は神戸出身なので、ダイエーには非常に親近感を持っていました。その後ダイエーはツインドームシティ構想を掲げてプロ野球のホークスを買収し、福岡に双子のドームやホテルを造って都市開発を進めます。神戸と野球。この仕事にはまさに運命を感じました。
このプロジェクトでは、次男の中内正氏の直轄だけに、会いたければどんな人でも会ってもらえるというほど自由に仕事をさせていただきました。スケールの大きな企画の動かし方をこのとき身につけることができたのではないでしょうか。また、1年間ニューヨークに海外赴任し、本場でありとあらゆる本物のエンタテインメントを見ることもできました。
そしてこの福岡時代に、あの阪神大震災が起こったのです。私はすぐにおふくろに電話をかけました。やっと通じた電話の向こうで、おふくろはこう言いました。
「あんたは帰ってこんでええ。あんたの水と食べ物が余分にいるようになるやろ。」
確かにそのとおりでした。すぐに神戸に帰れないなら、神戸のために何ができるのだろう。仕事で神戸に恩返しをしなければならない、そう思いました。
結果、日本人チームの監督が王さん、外人チームの監督がボビー・バレンタインというプロ野球オールスター戦の第三戦を福岡ドームで開催することに漕ぎつけました。経費を差し引いた収益のすべてを、震災からの復興をめざす神戸に日本プロ野球機構から神戸に寄付させていただき、福岡から神戸復興のお手伝いをすることができたのです。
映画プロデューサー時代
神戸が日本発祥の地である映画の世界へ【映画プロデューサー時代】
福岡ドームの事業が一段落し、それまで未経験だった映像事業を立ち上げるため、関連会社に異動しました。その最初に関わった作品がカンヌ映画祭に出品され、翌年手掛けた作品でベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞しました。企画、脚本の段階からずっと一緒にやってきた映画だったので、とびきり嬉しかったのを覚えています。
翌年に関わった作品ではベネチア映画祭に出席する機会を持ち、世界三大映画祭にすべて足を運ぶことができました。その後の製作作品(「ジュブナイル」「バトルロワイアル」など)でも高い評価を残すことができ、本当に幸運でした。
また、この時期は、東京・銀座のコミュニティFM局の再生を委託され、取締役を兼任しながら、電波メディアのプロデュースも経験させていただきました。
IMJ社長時代
社長就任、株式上場、9年間の軌跡【IMJ社長時代】
こうして紙・空間・映像・電波とひととおりのメディアプロデュースに携わり、自分の中で一区切りがつきました。当時リクルートには38歳フレックス定年制という制度があり、数千万円の退職金が出るので、これを期にあたらしい事業を興そうと思っていました。そんな折、インターネット企業のIMJ創業社長と出会い、後継者としての誘いを受けたのです。
このときまず頭に浮かんだのは、一貫してメディアプロデュースに携わる中で唯一タッチしていないのがインターネットということでした。「これを手がけないでメディアをやったとはいえないだろう」そう思いました。「IMJの経営を引き受ければ、すべてのメディアを網羅できる。」何度かのミーティングを重ねる中で、一刻も早くインターネットの世界に踏み出そうという意欲が強くなり、結局は退職金を受け取らずに、自分の思いを優先しました。
当時のIMJは創業5年目、まだまだ小さな企業でした。私は2代目だったので、たとえれば、急に5歳の子供の父親になったようなものです。初めのうちは私と社員がお互いに様子を窺っているような感じでした。しかし様々な会議や飲み会などを催し、社員と膝詰めで話し合っているうちに、少しずつお互いの目線が合うようになってきました。
社長就任から一年ほど経ち、「ああ、もしかしたら父親として認めてもらえたかな」とやっと思えました。2001年には、ナスダックジャパン(現ジャスダック)に上場し、社長として9年半走り続けました。私がバトンを受けた時に売上9億円だったIMJは、後継社長にバトンを渡した時には連結グループ21社、売上186億円、グループ社員数は850名を超える規模に成長出来たのです。
神戸市長選時代
2009年 神戸市長選【神戸市長選時代】
樫野氏 15万6178票
矢田氏 16万4030票
【総得票差】7852。有権者数123万人に対しその差0.6ポイント。
【30~50代得票】 樫野氏47.3% - 矢田氏38% 9.3ポイントの勝ち
【無党派層得票】 樫野氏52.6% - 矢田氏28. 7% 23.9ポイントの勝ち
(神戸新聞出口調査)
これが「史上最大の接戦」といわれた神戸市長選挙の戦績です。ビジネス界を卒業し、子供のころからの夢だった神戸市長になるべく、全力を尽くして戦った初めての選挙でした。結果として大変多くの支持をいただきながらわずかに及ばず敗戦を喫し、神戸市改革の時期が後退したことに、悔しい思いでいっぱいになりました。
ただ、そんな中でも有意の神戸市民の方々から、驚くほどたくさんの応援メッセージをいただいたことが大きな救いになりました。
「樫野さんのマニフェストには神戸に対する愛情と情熱がきちんと練り込まれています。行政に携わる者として、政策案にこのような温度と立体感を感じたのは初めてでした。これらを実麦するためのリーダーとして、樫野さんの力が本当に必要です。」
「貴方の熱意で目を覚まされた15万人の一人として、その勇気と行動力に敬意を表したいと思います,このl5万の民意が決して消える事のないよう、いつぞや大きな希望の光になるようにしていかなくては!」
「見えない何かにあきらめいたひとりひとりが行動を起こすことから新しい風が吹きはじめるのかもしれません。日本で初めての風が吹くことを!」
「完投お疲れ様でした!今回は本当に悔しいです!残念です。樫野さんが市長になれば神戸ももっとおもしろくなる!とずっと応援してました。樫野さんにぜひ変えて欲しかったのですが、神戸市民の約7 割は無関心。残りの過半数の支持も受けていないのに現市長が再選。あまりも神戸市民が情けない!今はゆっくり肩を休めて、そしてまたマウンドに立つ日を期待しています!」
「今回の市長選、めちゃくちゃ惜しかったですね。あと少し、投票率が高ければ・・・この投票率と、結果的に現職を選んでしまう、今の神戸って、どうなんでしょうか?神戸が新しく変化できるチヤンスだったのに。これからも応援してますので、神戸のために新しい行動を起こしてください。」
「自分たちの神戸を自分たちで作っていこうという自立した市民になるにはどうしたらいいんだろう?樫野さんが再び市長を目指して立ち上がるとき、市民もともに立ち上がる?そんな神戸になるよう、地道に努力していきたいと思います。4年後!待っています!」
「私は神戸市の関係者ですが、これからまた数年間、官僚的体制のもとで業務に追われるのかと思うと、正直、息苦しさを覚えます。神戸市には、なんとか変わってもらいたかった。私と同年代の職員でも、同じ思いの人はたくさんいます(むしろそっちの方が多いかもしれません)。今回は、市民の民意ではなく、組織に敗れた選挙だと思います。是非挑戦をお願いいたします。」
「貴方に出会うまであきらめていた(というか、あまり考えていなかった?)神戸の活性化、元気再生化。志のある人に活躍の舞台に立ってもらえなかったのは神戸市民ひとりひとりの責任です。」
「ボランティアの活動をさせていただき、とっても気持ちのいい時を過ごすことが出来ました。スタッフやボランテイアの皆さんの活動や取り組みは、すごく清清しいものを感じさせてくれました。皆さんすばらしかったです。次を期待しています!」
こうした励ましをいただき、神戸に起こった地殻変動を体感できたからこそ、捲土重来、さらなるチャレンジへの熱い想いを持ち続けることができたのです。
神戸リメイクプロジェクト
神戸の熱源「神戸リメイクプロジェクト」【神戸リメイクプロジェクト】
選挙の翌日からあらたな挑戦がはじまりました。
「改革はたったひとりの情熱から始まる」
そう信じて地域活動の中心となる「神戸リメイクプロジェクト」を本格稼働させ、今日まで多くのプロジェクトに取り組み続けています。
その中で大きな柱となるのが、次の3つの要素です。
『行政改革』 『議会改革』 『市民と企業の活性化』
行政は本当に必要なサービスだけを少ない税金でまかない、議会は校正で公平なチェックとルールづくりを徹底します。主役はあくまで地域の企業や市民です。地域の人々がつながり、化学反応を起こすことで、企業が成長し、雇用を生み、人が増え、街がにぎわい、暮らしが豊かになると思うのです。
具体的にいくつかのプロジェクトをご紹介しましょう。
■ 神戸ひとマガジン「裕ちゃんを探せ!」
須磨区生まれの大スター石原裕次郎さんの愛称をタイトルに2010年4月に創刊。編集長を務めています。出演依頼・取材対象は、あえて60歳以上の方々に限定。この雑誌の狙いが、神戸で生まれ、神戸で育ち、神戸を愛した大先輩にもっと元気になっていただきたい、そして“神戸DNA”を、次世代に継承していきたい、ということだからです。
「知っている方が載っていてびっくり。いつかわたしも出られるよう、より向上して日々を青春したいものです。」「素敵なご夫婦の紹介ありがとうございました。あやかりたい!元気をいただきました。」「自分のこれからの生き方を考えなければと思いました。紹介されたか方はみんなイキイキ・キラキラなさってますね。」
読者の方々からもたくさんのうれしいお言葉をいただいています。これからもっと多くの方に出ていただき、読んでいただける雑誌に育てていきます。
■ 兵庫県ナンバーワンのママサークルと創るラジオ番組
ママをやっていくには不安だらけの社会です。子育て、夫との関係、離婚、仕事復帰などなど…。そうした悩みを少しでも手助けできないかと思い、2010年6月、FM MOOV(コミュニティーFM/毎週金曜日朝10時。2012年9月末で番組終了)でラジオ番組をスタートしました。パーソナリティーには、兵庫県ナンバーワンのママサークル“BIMAMA”の代表を迎え、多くのゲストもお呼びして、神戸のママさんの相談を受けてきました。述べ100回以上に渡る放送となりました。
■ 神戸大「起業家精神養成ゼミ」
神戸市の若手起業家を育成するため、母校の神戸大学に呼びかけて2011年6月にスタートしました。上場企業の経営経験がある私を含め、16名の若手経営者がゼミで指導しています。神戸出身の経営者がお世話になった母校に恩返しをするこの仕組みが、地域企業活性化の強力な推進力として発展することをめざします。
■ メリケン波止場で叫ぶ「ハトチュー」
たとえお金がなくても、知恵と勇気と企画さえあれば、きっと面白いことができる。そんな想いでスタートしたのが「波止場の中心でロマンスを叫ぶ」イベント、いわゆる「ハトチュー」です。短期間での準備だったにもかかわらず、関連キャンペーンには180社もの企業に参画していただきました。ゼロから立ち上げたこのイベントに多くの市民、企業を巻き込んでいったプロセスには、神戸を元気にするヒントがたくさん詰まっています。そしてなにより、ロマンスを叫んだ人々にとって、メリケン波止場が思い出の場所に変わることが、最高のプレゼントではないかと思います。
■ 市会傍聴プロジェクト
地方議会を傍聴されると、おそらく相当驚かれると思います。シナリオ通りの儀式、かみ合わない議論、果ては堂々と居眠りをする議員…。こんな状況を変えるには、まず最初に“議会の見える化”をしなければいけません。そこで立ち上げたのが「市会傍聴プロジェクト」です。こうしたプレッシャーも功を奏してか、神戸市でも議会改革の検討会が開始され、市会メルマガも発行され始めました。また、「市会傍聴プロジェクト」のメンバーが奮い立ち、2011年の統一地方選挙では3人が見事当選。今後は“議会内部からの改革”も進められる準備も整ってきています。
地方自治体 特別職時代
広島県庁 広報総括監からチーフ・マーケティング・オフィサー、
そして京都府参与へ【地方自治体 特別職時代】
2011年5月、広島県の湯崎知事の要請で広島県広報総括官に就任しました。
湯崎知事とはIT業界の経営者として旧知の仲でした。「民間の血を入れて県庁組織を活性化したい。戦略的広報を導入したい」と誘われました。私自身も行政経験を積む良い機会になると思いました。よく言われる県と市の二重行政の実態、縦割り行政の弊害、公務員組織の強みと弱み、地方分権が進む中で地方自治体はどうあるべきかを肌で感じ、考え、実践したいと考えたわけです。
“広報”というと一般的には知事のスポークスマンとか、観光などのPRだけを手掛けるような印象を受けるかもしれません。しかし広島県庁で導入した戦略的広報は、非常に幅広い分野にわたって多くの事業を統括しマーケティングする仕事に変革したのです。まさしく「縦割りの組織に横櫛を指す」というイメージでしょうか。
広島県庁がかかわる事業約1400本のうち、私自身が関わった事業数は500本以上。ジャンルとしては、がん対策、農業振興、国際ビジネス、産業育成、Uターン、Iターン、女性の就労支援、子育て、観光、平和構想などです。
仕事の中身も多岐にわたり、広報ツールの見直し、ターゲットの選定、インサイトの設定、クリエイティブのチェック、媒体選定や獲得、全体コミュニケーション設計や部局間横断のハブ機能などが挙げられます。もちろん事業戦略そのものの立案までサポートしているもケースもあります。
県ホームページのリニュアルでは取り組み、アクセス数がは前年比で1.4倍、記者会見数、報道件数、報道率も軒並みアップする結果となり、総務大臣賞を受賞しました。更に力を入れた首都圏広報では、露出件数は前年比6倍、広告換算額にして、経費約1000万円で25億円分を露出。これは話題となっている「おしい!広島県」観光キャンペーンの広告換算額を含めない数字なので、それを入れると30億円を超える結果となっています。
こうした仕事を経験する中で、行政組織を統合的にマネジメントする能力をより一層磨いています。予算をカットさせてもらった事業もあれば、補正を組んでもらった事業もあります。一旦中止してもらい、来期に検討しなおしてもらったのもあります。
すべてにおいて県民のために事業の成果を最大化し、予算を最適化するために、という考え方を議論し、共有しながら進めてきたのですが、県庁職員の皆さんの頑張りもあって、本当に大きな成果が上がったと実感しています。
更に、この広島県での成果を聞きつけた全国知事会の会長である京都府の山田知事からオファーを受け、京都府参与として広報のコンサルティングもスタートしています。
これまでの企業経営、地方自治体での行政経験、地元神戸での地域活動を通じて、「神戸市のグランドデザイン」を描き、活動している毎日です。
2度目の神戸市長選
2013年 2度目の神戸市長選落選と、そこで芽生えたもの
「『支援する政党や団体を重視した』と答えた人たちの投票先は久元氏が6割と圧倒的多数。ところが、『経歴や人柄』を重視した人々の間では樫野氏が上回り、『公約や政策』を重視した人々の投票先は樫野氏が久元氏の2倍近くにのぼった」(マスコミ報道より)
2度目の落選が決まった時、不思議と、落胆の気持ちよりもやりきった感と仲間への感謝の気持ちでいっぱいでした。
2013年神戸市長選挙。
結果は負けましたが、素晴らしい仲間と出会い、かつてない市民の情熱があふれ出た選挙が出来たと思います。
自民・公明・民主を相手に、市民が立ち上がり、誰に強制されるわけでもなく、500名を超えるボランティアスタッフが自ら駅に立ち、ビラを配布し、ハガキを書き、ポスターを貼り、数々のアイデアを実現しながらの選挙戦でした。
「選挙は戦いではなく、仲間づくり」だという信念のもと、私の至らなさを補って余りある支援者の活躍こそ、 神戸市長選挙史上に残るものだったと確信しています。
間違いなく、この方々は樫野の支援者というだけでなく、みんながそれぞれ当事者意識を持った主役として 神戸のために活動していました。 これこそが「市民が主役の街づくり」の原点になるのではないかと感じました。
厳密に言うと、個々に主義主張は違うところがあったのでしょうが、 「神戸を良くしたい」という大義のために、小異を飲み込み、ひとつになった組織でした。
負けたのは私に「何か」が足りなかったから。
その「何か」を探さないといけません。 そして、どう埋めることが出来るのかを考えなければいけないと思っています。 2連敗しましたが、人生においてこれほどの経験と財産を得ることができ、私は本当に幸せ者だと思います。
久元喜造 16万1889票
樫野孝人 15万6214票
森下やす子 5万3393票
貫名ユウナ 4万6692票
久本信也 2万6548票
投票率 36.4%
神戸市9区において、計5区で樫野氏トップ。
神戸志民党の旗揚げ
地域政党 神戸志民党 旗揚げ
神戸市長選挙後、みんなから多くのご意見を頂きながら、地元神戸へどのようにすれば貢献できるのか考えてきました。
4年前に、神戸の元気を取り戻すため「行政改革」「議会改革」「街と市民の活性化」という3つをテーマで立ち上げた神戸リメイクプロジェクト、そして2度の神戸市長選を通じて、多くの仲間が当事者意識を持ち活動してくれた事で、少しは神戸の市民活動の熱を起こせたのではないかと思います。
この熱を失わないように多くの賛同の輪を広げ、より良い神戸を実現するため、この街に根差し、神戸市民のみんなと共に歩み、市民が主役の街づくりを実現する事を目指し、地域政党を立ち上げることにしました。
現在の中央政党はすべて東京発です。地方にかかわる政策を立案、決定し、地方支部がその下請けを行います。結果、中央政党と地方支部においての政策のねじれや党利党略に振り回されるという問題が発生します。
この上意下達型の組織では、地域の実態を踏まえた政策の実現は困難です。中央集権型政党政治から脱却を図り、地方独自の視点と見解を示すことが地域政党の役割であり、その為には政党の垣根を越えて(中央政党の党籍を問わず)地域ありきで独自政策を掲げる地域政党の存在が必要です。 私たちは地域に根差し、「神戸の事は神戸で決める事が出来る」政党です。
メイド・イン・神戸の地域政党が、今後の地方議会・地域政党の見本となるように全力で取り組みます。私たちの街・神戸を私たち市民の手に取り戻し、神戸で生まれ、育ち、住み、本当に良かったと誇りに思える未来に向けて一緒に立ち上がりましょう!
兵庫県議会議員
2015年 統一地方選挙で兵庫県議会議員に
一般公募、面接、育成期間を経て、神戸志民党は神戸市全9区に候補者を擁立しました。この選挙は監督に専念するつもりでしたが、健康上の理由で1名が途中離脱し、新人候補から「党首自ら立候補してチームに勢いをつけて欲しい」との強い要望。
折しも世間では号泣県議問題で兵庫県議会が日本中から注目されていました。
県と市の連携、二重行政の解消など神戸市民党市議団と県議団が連携すれば、より神戸の街は良くなるはず、そんな想いで私自身も選挙の2ヶ月前に「生まれ育った地元須磨区」から急遽出馬を決意しました。
現職市議2名を含む市会議員候補12名、県会議員候補4名の総勢16名の布陣で臨んだ初の統一地方選挙。新人候補の応援に全市を走り回り、自分の選挙はほとんどラスト1週間のみ。
しかし、結果は現職市議1名と私(県議)の2名のみ当選、チームとしては惨敗でした。
公認候補の選び方、チーム戦の戦い方、党首としての動き方など反省することばかりですが、ベンチャー政党に苦労は付きもの、大きく根を張った強い政党に成長するためにも、これを糧にして更なる努力を続けていきたいと思います。
また、私自身も今度は議会の中から改革を進め、未来の目標に向かって走り出したいと思っています。
プレイヤーからプロデューサーへ
2019年6月に1期4年で兵庫県議会議員を引退し、自らの立ち位置をプレイヤー側からプロデュース側に変えることにしました。
限られた地域の政治活動に限定するよりも、より広範に活動範囲を拡げた方が地域創生へ貢献でき、それが結果的には神戸のためにもなると思うからです。
2019年4月の統一地方選挙において、神戸志民党から香川しんじ候補が立候補し神戸市議会議員に初当選しました。
そして香川市議を含む無所属議員など5名が集結し、会派「つなぐ」を結成することで、前回選挙よりパワーアップした議会活動ができるようになっています。
また、リクルートOBを束ねた政策シンクタンクの「かもめ地域創生研究所」のメンバーも各地の統一地方選で8名が当選し、議員活動を開始しています。
さらに、私が設立時代表を務め、現在相談役をしている地域創生サミットも参加議員が50名を超える組織に成長しています。
私個人としても政治改革の提言を目的に出版プロデュースをスタートしました。学校改革を狙った「PTAのトリセツ」 は各方面で話題となり、マニフェスト大賞審査員特別賞を受賞し、続く「リクルートOBのすごいま ちづくり」も地方自治体から問い合わせが相次ぎ、第二弾が2020年6月に発行決定しました。
また、教育改革のために、県立広島大学のコンサルティングや中国地方唯一のMBA「HBMS」の講師として教壇に立ち、 2021年開校予定の叡啓大学の設立に取り組んでいます。
まだまだやれること、やらなければならないことがいっぱいありますが、多くの人の力を借りながらこれからも前に進んでいきたいと思っています。